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武道家は「人格者?」小野派一刀流・宗家・小野忠明から考えてみる?

更新日:2022年8月10日


武を極めたものは人格者(リーダーシップ、柔軟性、思いやりなどを持った優れた性格を持っている人)だと思われがちです。確かに、何かを切り開くためには、人格者であるほうが優位に働くことが多々あります。一方、強いこだわり、ぶれない、目的の達成以外に興味がない、並外れた努力や行動がある・・・結果、物事を切り開き、成し遂げます。武芸者は、表が人格者だとすれば、裏は狂気です。

 なぜ、このことに触れることにしたのか?表面的なところだけで勝手に、先生や師範と言われる人へ人物像を含め、理想像を作り上げます。ただ、「こだわり」の領域に触れると引いてしまい、不快感・嫌な気持ちにさせてしまうことがあります。ギャップは、狂気の域に達してないからです。

 良いとか、悪いとかではなく、強くなる、リーダーシップ、実力主義の世界に身を置くことを考える人は、たりないものを考えるきっかけは簡単に言えば努力、しっかりした言い方をすれば、狂気的ストイックさを持つ努力家になることです。また、理想像を描いている人は、理想像とともに反面の顔があるんだなと言うことを知ってほしいです。

 中国の思想のなかで、陰(いん)と陽(よう)の存在を説いています。それらは、互いに対立する属性を持った二つの気があると言われ、まさに、何かを極めるということはこの2つの面を必ず持ち合わせています。狂気の域に達した「こだわり」の人!小野派一刀流・宗家・小野忠明を紹介します。


江戸時代には柳生新陰流と並び、徳川将軍家の御流儀として栄えた小野派一刀流剣術!さて、人格者でしょうか。狂気の人でしょうか。

大人げない!将軍の意見批判!柳生新陰流批判!

2代将軍秀忠が持論の兵法を、小野忠明に説いた。すると、「兵法というのは実際に腰の刀を抜き、生死をかけた修羅場で行うものです。口先の兵法などは畳の上の水練と同じで何の役にも立ちません」と答えています。え!将軍に恥をかかせています。そして、 口先の兵法とは、柳生新陰流の柳生宗矩です。平和で生き抜くための剣術、人を高めるための活人剣と同じにするなと言わんばかりです。


「第二次上田合戦」「大阪の陣」での暴走劇

 徳川秀忠は「第二次上田合戦」によって関ケ原の戦いに間に合わず、家康に激怒させました。「第二次上田合戦」時、小野忠明はやらかしてしまいました。上田城の物見(徳川家の動きを見に行く役)を斬ったのは、小野忠明か、別の旗本か?軍令規律を守らないなかでの行為であったため、軍令違反の行為で処罰されました。

 小野忠明は、大阪冬の陣、夏の陣に参戦をしています。戦後、御家人たちの戦場でのふるまいが見苦しかったと言ってなじり、御家人たちは、諸大名がいるときに秀忠に直訴し、大騒ぎになりました。 喧嘩両成敗で、全員が閉門処分を下されました。


まだまだ大人げない!喧嘩上等!

逸話と言われている話ですが、町道場で天下無双を名乗る剣士に対して、それは剣術?と喧嘩を売り込む小野忠明!無論、そこで勝負となるのですが、小野忠明は剣を使わず、鉄扇で相手の額をたたきつけた・・これを聞いた将軍は、徳川将軍家の御流儀の剣術が町道場相手に喧嘩をふっかけて、相手の額をたたくとはと激怒したとか。そこで、遠流(おんる)させられたとか。


補足:どっちが良いのだろうか?

 小野忠明は、トラブルメーカーだったと思われます。この時代の権力者に屈せず、自分のこだわりを通し続けた強者でした。

 徳川家康は、剣術兵法指南役として、柳生新陰流・柳生宗矩と一刀流・神子上典膳(みこがみ てんぜん、のち、小野忠明)を同時期に200石で雇っています。この両名の出世街道は違います。柳生新陰流・柳生宗矩は、関ヶ原で2000石、大坂の陣の後には3000石に加増されています。一方、小野忠明は、生涯で600石に加増されたのみです。

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