儒教発祥・孔子「論語」(古典儒教)から現代儒教
揚心館は、サムライ教育として陽明学の儒教
日本人の道徳精神の1つとして、日本的な儒教を照らし合わせると、武道精神とつながることができます。揚心館は、日本的な儒教と現代社会で必要な資質として、陽明学を推奨しています。社会のために自分が何ができるのかを考えることをベースとして、学問は「知行一致(行うことと、学ぶことは一致すべき)」という教えです。また、儒教で説く 五常(ごじょう)、つまり、儒教で説く5つの徳目。仁・義・礼・智・信を指します。それを揚心館のマークとしております。
揚心館は、道徳と将来と立身という2つの観点を重視しています。社会での自分がどうありたいか、そのために何を学び、何を生かすかということを考えています。
揚心館は、サムライ教育として儒教は朱子学vs陽明学
日本的な儒教だと述べました。これは、韓国や中国の儒教とは違います。簡単に言えば、儒教が社会に根強くなり、かつ葬礼を重んじます。葬礼は、人権問題と考えると結構ひっかかりそうな思想が多いです。日本は、極端な葬礼を分離をして、儒教の良いところ取りをしました。
徳川政権の儒教は、朱子学をベースとしました。主君を中心に、身分制度を確立させる教えとなりました。例えば、主君のためには、サムライは命を懸けて守るような武士道です。その一例が、「忠臣蔵」です。殿様の仇を討つというストーリーは、主君に従う武士道の象徴でした。
一方で、陽明学の儒教は、現代の教育や社会でも受け入れやすいと思われます。主君というよりは社会をよくすること、社会のために何ができるのかを考えることがベースにあります。また、学問は、知行一致(行うことと、学ぶことは一致すべき)という教えです。江戸時代の「大塩平八郎の乱」は、社会で困っている農民のために幕府に対して反乱を起こした事件でした。これは、社会の弱者を助けたいという陽明学思想です。
揚心館は、道徳と将来と立身という2つの観点を重視しています。社会での自分のありかた、学びを生かすということを考えると必然的に、陽明学な発想となっていきます。
サムライの在り方が儒教思想と行動が異なっていることは面白いところです。
孔子「論語」と儒教って?
儒教の創始者・ 孔子です。孔子の教えは、『論語』(儒教の「四書」の1つ)として、512の短文が全20編で構成されています。 ただ、厳密には、『論語』は、孔子の弟子によってまとめられました。
人徳によって政治を行えば、星々に慕われる北極星となる。
君子は器にあらず(人格者とは、何か一芸に特化した専門家ではなく広く俯瞰した知識を持っているもの)
政治とは、誤りを正すこと。指導者が正しくあれば、民衆が間違えることはない。
人格者は広く交流する。徳のない人物ほど一部に固まる。
信頼のない人物には、何を任せてよいのかわからぬもの。牛車や馬車にくびきがなければ、どうやって操ることができるというのだ?
考えのない学びは、無駄である。学ばずに考えてばかりいては、危険である。
指導者たるもの威厳を持つこと。学問にて柔軟な知識を養い、誠実であること。自分の視座に見合わない者を友とするべきではない。過ちがあった時、改めることをためらってはならない。
人に知られていないからといって心配する必要はない。人を知らないことを心配しておくべきだ。
人格者が、豪勢な食や快適な家を求めることはない。行動は機敏だが、発言は慎重である。徳の高い人物に自分の行動を正してもらう。そんな人物こそ学問が好きな人だと言えるだろう。
「詩経」には300以上の詩がある。しかし、書かれている内容は一言であらわせる。“誠実であれ”
わかっていることを「知っている」という。わかっていないことを「知らない」という。これが「知る」ということだ。
民を政策で導き、刑罰で治めれば、みな法の抜け道を探し始めるだろう。徳をもって民を導き、礼をもって治めれば、みな恥を知りその身を正すことだろう
十五で学問を志し、三十で独立。四十で迷いが消え、五十で天命を知った。
六十になると人の話に耳をかせるようになり、七十になってやっと、人の道を外れることなく自由に行動できるようになった。
人は、それぞれに応じた間違いを犯す。どんな間違いを犯したかを見れば、その人を知ることができるだろう。
人格者には3つの畏れがある。天命や、人格者の声、聖人の言葉だ。徳のない人物は天命を知らず、畏れも感じない。人格者に馴れ馴れしく振る舞い、聖人の言葉を侮辱する。
その人の善悪を知るためには、まず行動を知ることだ。もしそれが善なら、次に同機を知ること。またしてもそれが善であれば、最後に楽しんでいるのかを確かめる。この3つの視点で人を見れば、誰もその善悪を隠し通すことなどできない。
いくら口がうまくとも、上辺だけの愛想でごまかす人間は思いやりが足りないものだ。
ふるきをたずねて新しきを知る。そうすることで人を教える師となれる。
信念に従って行動しない者は、臆病者だ。
これらを読んで、どう思うでしょうか。孔子の教えは、哲学というより、孔子の生き方、哲学でないという研究者が多いです。時代背景から、孔子は平和な良き時代のリーダーの在り方を説き、徳をもって国を治めようと説いた人です。その後につながる弟子たちが、孔子の教えを膨らませて哲学として形成させていったというのが正しい見方です。また、儒教に限らず、権力者に求められる学問である必要性から、その反対を説く教えというのも多くでてきました。朱子学と陽明学の関係のようです。
ただ、日本人に一番親しまれてきたのは『論語』だと言われています。自然な道徳観を好む日本人には適しているのかもしれません。
渋沢栄一「論語と算盤」
渋沢栄一と言えば、明治時代、起業家として約500社の会社の設立に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれている凄い人です。現在のみずほ銀行、東京ガス、東京海上ホールディングス株式会社、帝国ホテル、キリンビールなど、多くの会社の設立を手掛けてきました。そこでも、儒教の考え方を説いています。
渋沢栄一は、論語から人格形成を学び、資本主義の利益主義一辺倒にならず、バランスをとることが大切だと説いています。
「論語」とは、人間性、人格の磨き方、リーダーとしての「あり方」、人との付き合い方を学ぶものだとしています。 五常(ごじょう)が強いと思われます。
「算盤」とは、科学技術を学び、会社で仕事をして価値を生み出し、国を豊かにすることを説いています。
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